第4話 心優しい反戦論者小堺兵長の死
太平洋戦争開戦直後の昭和17年初頭、中国有数の産炭地、淮南炭鉱の大通(ダートン)に、特務機関淮南班が設営され、班長以下3名が派遣された。
私もその一員であった。昭和15年に設営した淮南班は、その後、一時撤収していた。
日本軍が占領した後、軍の委託を受けた三井石炭鉱業が炭鉱の運営に当たり、鉱長以下多くの社員が駐在し、日本建築の社宅で暮らしていた。
特務班もその近くの建物を改築して使うことになった。その完成までは警備隊本部に間借りしていた為、本部の兵隊達とも親しくなっていた。
任務上も関係の深かった宣伝班に、小堺という上等兵がいた。一見してインテリと解かる彼は、東京帝国大学出身の法学士であった。卒業後、内閣情報局に勤めていたと言う。政府の中枢に勤める者が軍隊に召集される筈はないのだが、彼は召集されると一兵卒に甘んじて、幹部候補生にすらなっていなかった。よほどの思想問題があったに違いないが、問いただすことは出来なかった。
彼は、見るからに温厚で、およそ軍国主義とは無縁な人物だった。おそらく、反戦的な言動が懲罰の対象になり排除されたのであろう。軍隊では彼のような学士様が一兵卒でいると、陰湿なイジメにあうのが常であったが、宣伝班は旧制中学卒業以上の比較的高学歴の者ばかりだったから、彼はイジメられてはいないようだった。それでもやはり軍隊になじめない異質の存在に見えた。
我々が新しい建物に移ると、彼もまた、日曜毎に特務機関に遊びにくるようになった。早稲田大学出身の徳渕班長と話しが合い、我々と一緒に楽しく昼飯を食べた。隊内のアルミの食器と違い、日本の茶碗で食べる畳の上での御飯が嬉しくて、ときおり涙ぐむのだった。
我々は小堺上等兵と、政治経済、文学、哲学など、高レベルの話しを楽しみ、日中戦争批判も盛んに語り合った。
もの静かな人だが、自分を曲げない強い意思をにじませていた。
「娘の写真が届きました。見て下さい」
ある日、彼は嬉しそうに、封筒から一枚の写真を取り出した。
公園の芝生に座った美しい奥さんとニコニコ笑う可愛い女の子が写っていた。
「今年四つになったんです。赤ん坊の時しか抱いてやった事がないんですよ。早く会いたいです」
と写真に頬ずりして抱きしめた。
休日毎に、自由な雰囲気の特務機関に来ては、気楽に話しをしながら茶碗でご飯を食べるのが、彼には無上の幸せだったようだ。私達も彼の来訪を楽しみにしていた。
その年の夏、私は希望していた国立南京中央大学に入学を許され、淮南を離れた。
一年半後、蚌埠(バンプー)の本部に復帰した私は、淮南の同僚から
「小堺上等兵が兵長に昇進した」
と聞いてほっとしたものだ、万年上等兵でなくて良かったと。
その後、蚌埠の駅頭で、偶然、淮南の宣伝班にいた伍長に出会ったとき、
「小堺兵長は元気ですか」と訊ねた。返って来た言葉に私は息を呑んだ。
「小堺は伍長になって(戦死者は一階級上がる)、靖国神社に行きました……。討伐で大した戦闘じゃなかったのですが、彼一人だけが頭をやられて、即死でした。可哀想な事をしました」
私は呆然となった。
あれほど中国人に優しく接し、軍隊になじめなかった男が、何故真っ先に中国軍の弾に当たってしまったのか。
「中国人は可哀想だ」といつも言っていた優しい男が、二度と妻子に会えなかったなんて。思い出すのも辛い。
もしも彼が長いものに巻かれて信念を曲げ、軍事体制に従っていたならば、エリートのまま、前線に送られることは無かったはず。信念を曲げず妻子を残して散った彼の無念さは、いかばかりか。
彼は靖国の神になんかなってはいない。絶対になってはいない。
残された奥さんは「名誉の戦死」だとか「靖国の神」だとか言われて、どんなに悲しい思いをされたことだろう。
あの写真のお嬢さんは今どうしておられるだろうか。60年以上昔のことだから、還暦をとうに過ぎておられるはず。もしもお目にかかる機会が得られたなら、父上のことを詳しくお話しして上げたいと切に思うこの頃である。
◆中谷久子さんと同年代の少女達の戦争体験文集
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