飢餓との戦い

 

焼夷弾や機銃掃射の恐怖より前に、飢餓の恐怖が有りました。 戦争中も配給は遅れたし大変でしたが、戦後の方がもっとひもじかったように思います。 「お米の通帳」を初め色々な配給品の券がありました。 衣料切符も割り当てられたけれど、その券で衣類を買うお金もないから、券をお醤油に換えてもらったりしました。
タバコをすわない男の人も、いちいち配給を買ってきて、食料と交換していましたが、女性にはタバコの配給はありませんでした。 お米の通帳は、初めのうち、おとな一人一日二合三勺(2 カップ強)買えました。
すごく多いでしょう? 今と違って、米で蛋白質まで総ての栄養を摂取しなければならなかった時代なのです。 もともとおかずはほんのわずかで、時には梅干だけで、米のご飯を山盛り食べていた日本人なので、一日に一升飯(米で 1.8 リットル)を食う人さえいたのです。
米の配給がどんどん少なくなると、たちまち栄養失調になりました。 戦争中から米屋で精米することが出来なくなって、玄米の配給でした。 玄米のままでは、圧力釜もないからマトモに食べられません。
乏しい燃料で、お粥になるまで煮るわけにもいかない。 だからみんな一升瓶に玄米を入れて、竹の棒で突っつきました。 子供もおとなも手のあいている間中、辛抱強くビンの中の米をつきました。 その玄米の配給さえほとんどなくなって、遅配欠配、米の通帳に何日も前の分が記入されていない事態になりました。
米の代わりに買わされた、大豆の絞りかす(油を絞ってぺちゃんこに干からびた硬い大豆)はまだましで、憎らしかったのはフスマです。 小麦粉を作った後の皮の部分。 今ではその食物繊維が珍重されていますが、当時は粉にひく事も出来ず、お粥に混ぜても消化できないでそのまま胃腸を通過してしまうから栄養にはなりません。 そんなものを買わせておいて、米の代わりだから、そのぶん米は減らすというのです。
アメリカ軍が進駐してきて、GI 達の血色の良さが目に付きました。 日本兵はろくなもの食べていなかったけれど、アメリカ兵は栄養満点の食事をしていたんだなあと思いました。 日本人をこれ以上飢えさせては不穏な動きも出てくるだろうし、とにかく食糧援助だということで、アメリカから色々送られてきました。
配給になったとうもろこし粉は、当時流行ったリング型の鋳物の鍋で大きなドーナッツ状のパンに焼き上げて美味しく頂きました。 何故かザラメ(砂糖)が大量に配給され、そのぶん米は減らされました。 砂糖が米の代用になるはずはないのに。
虫が混じっていたりしましたが、とにかくカルメ焼きを上手に焼く競争をしました。 重曹を入れてかき回すタイミングで、ふっくらしたりぺちゃんこになったりしたものです。 でもお砂糖ではお腹は膨らみません。 お腹が空いていない時間は有りませんでした。
買出し列車は有名でした。 でも衣類を持ってゆかないと農家で米は売ってくれません。 着道楽をしたことのない母に、米と交換できる和服など全くなかったし、私の服はぼろぼろで、二、三枚の良いところを集めて、ブラウスを作っていました。 家に大正時代のシンガーミシンがあったから助かりましたが。 自分の着るものも足りないから、米の買出しにはいかれません。
新座辺りの農家に行って、サツマイモを一貫目 (3.75kg) 買って帰るのがやっとでした。 体重 40 キロ足らずだった私が、農家から駅まで 4 キロの道を芋を背負って歩くのはしんどい事で、電車 3 本乗り継いでの一日仕事でした。

 

 

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