女中奉公もハウスメイドも勤まらなくて

 

私が病気した頃には下の兄も、中国のインフレでお金がなくなり、中国人になりすませられなくなって、日本に引き揚げていました。 焼かれたと思った家も家族も無事で、大変驚いていました。
兄がもう一つびっくりしたことは、特務機関時代の高額な給料を、6 年間内地に貯金していたのに、総て、母と私の口に入ってしまっていたことでした。 お金が全くなくなったときに帰ってきたのです。
兄は中国に残留していた間、中国軍の手伝いをしていたので、その給料を中華民国代表部に貰いに行って、そこの住み込み運転手になりました。 だから私がなかなか就職できなくても、何とかなりましたが、私自身は自立をあせっていたのです。
小さな新聞広告を握り締めて、誰にも相談せず横浜の日吉まで行った事があります。 その紙片には「女中求む」とありました。 女中とは住み込みのお手伝いさんのことです。 住み込み食事つきで働きたいと思いました。 家にいても食事を確保するのが大変でしたから。
その家は高台のお屋敷で、いかにも成金趣味の豪邸でした。 勝手口から台所に上がると、女中頭らしきおばさんが出てきて、「貴女が? お仕事なさるの?」なんとも不思議そうに私をじろじろ見て、直ちに断られました。 彼女の観察眼は確かでした。 「こんなねんねの嬢ちゃん、使いものにならん。」 女中さんなんて、私に勤まる仕事では有りませんでした。
その話をしたら、兄が「中国の銀行家が身元の確かなメイドを探しているけど、やってみるか」というので、行って見ました。 当時は住宅難で、売り家も貸家もなかったので、日本の銀行家が自宅の二階を提供していました。
ご主人が一人先に赴任して来て、台所用品から何から買い揃えました。 会話はご主人の片言と、筆談と手振りと、私の描く絵で間に合いました。 蒸し器もヤカンも絵で通じました。 毎朝必ず白いお粥を炊いて、沢庵の炒め煮などを作りました。 昼食、夕食を作る必要はありませんでした。
数ヶ月は困ることなく過ぎましたが、やがて奥さんと 1 歳半の坊やカンカンちゃんが到着。 ご夫婦は頻繁に深夜までのパーティーに出かけるようになりました。 カンカンちゃんは、言葉も解らないおねえちゃんに預けられて半狂乱、眠るどころでは有りません。 泣き喚き続けるので、階下の家主さんが困り果てて、ベテランのメイドさんを紹介しました。 そこで私は一か月分の給料を余分に頂いてクビになったのです。
5 年後くらいに、私が車掌で乗務していたバスに、この銀行家と大きくなったカンカン君が乗りました。 丁寧に挨拶され、お互いに嬉しい再会になりました。 張り切ってバスガールをやっている私を見てもらえたし、とにかくステキな再会でした。

 

 

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