機銃掃射の恐怖

 

私たち女学校 2 年生は、家から 4 キロ先の工場の焼け跡で、毎日灰の中から貴重な部品を探していました。 山の手の焼夷弾火災の熱は金属を溶かすほどではなかったようで、真鍮の部品は変わりなく光っていました。 灰が舞い上がるのに、マスクもないし、物陰一つない炎天下の辛い作業でした。 (工場は完全に焼け落ちて瓦礫の山だけでした。)
通勤も、電車は空襲警報が鳴れば止まりますから、あてにならず、歩くことが多かったように思います。 日曜日は休みでした。 からからに乾燥した感じのある日曜日(だったと思うのですが)、昼下がりに私は駅の方から家に向かって歩いていました。 空襲警報は出ていませんでした。 出ていれば勝手に歩いていられなかったはずですから。
そのとき西のほうから、ちいさい飛行機が一機迫ってきました。 私は西にむいて歩いていたのですが、いきなりバリバリバリッと機銃掃射の音がしました。 一本南の道路を狙ったようです。
私は人けのないお屋敷町の、長い塀の外を歩いていたので、もしこの道を機銃掃射されたら、逃げ場は有りませんでした。 ぞぞっと全身総毛立ったのを覚えています。 その敵機は、ほんの冗談だったのでしょう。 何しろただの住宅街で、女子供と年寄りしか居ないはずでしたから。 機銃掃射は一瞬で、そのまま東へ飛び去りました。 悠々と。 迎撃するものは有りませんから。
後年、イラク戦争で、チグリス川に逃げ込んだイラク兵に、執拗に浴びせられた機銃掃射が恐ろしくて、背中がぞくぞくしたことを覚えています。 思わずやめてーッと叫んでいました。

 

 

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