第2話 砲弾の洗礼

管内に大きな作戦があると、特務機関は工作班を編成して参加していた。
作戦部隊の裏方として、わたしたちが請け負った任務は、占領地の行政復活、警察再編による治安維持、学校の再開、治安情報収集。
主力部隊が引き揚げた後も残留するのが通例であった。

   生来好奇心旺盛な私は、一度戦闘の場を体験したいと思っていた。
昭和14年11月の寿県作戦を知って、新米でも行かせてくれるだろうかと
恐る恐る上司に希望を伝えると、
「おお、行ってくれるか。大変だが頼むぞ」
意外にもあっさり言われた。 

   本部に勤務していれば個室に寝て、食堂で飯を食い、毎日風呂に入ってと、
内地と変わらぬ安穏な生活が保証されていた。
危険な戦闘に出ても出なくても、戦時手当てがついて、
給料は内地勤務の2倍以上になる。
内地で初任給が40円足らずだった時代に、私は84円も支給されていた。
そんなわけで、誰も危険で苦しい作戦の現場には行きたがらない。
5名編成の工作班に各部署から1名づつ指名するのは
上司にとって、苦労なことだったのである。

   この夏は前年の中国軍の破壊活動による黄河堤防決壊の影響で、
淮河が大洪水に見まわれ11月になっても水が引かなかったので、
寿県作戦は、舟艇部隊だけの水上作戦となった。
陸軍の舟艇は長さ6~7メートルの頑丈な木造船に、
農業用のヤンマーエンジンを取り付け、スクリューに直結した簡単な物で、
通称ヤンマー船と称していた。関西の部隊の船はダイハツのエンジンを用いて、ダイハツ艇と呼んでいたらしい。

   この攻略戦は、砲兵隊と野砲、速射砲も積んだ数十隻の船団からなる
独立混成旅団の作戦で、特務工作班も1隻に乗り込んだ。

   事前の情報では、今回は戦闘を回避できるだろう、とのことだった。
特務機関の吉川班長が、密使を出して寿県城内の敵と連絡を取っており、
日本軍到着と同時に帰順し、
日本が設立した南京維新政府軍に参加する(寝返る)という密約が出来ていたからである。

   日本軍が近付いた時、北門に維新政府の五色旗を掲げて迎え入れる手筈になっていた。
しかし、この日(昭和14年11月5日)正午前、帰順交渉に当たった特務工作班の艇が先頭に立ち1000メートルに近付いても、五色旗は上がらない。
6~700メートル付近で、後方の指令艇が赤旗を振っているのに気付いた。
艇長がエンジンを絞ると、いきなり猛烈な銃声。
水面を、機関銃弾の水柱が走っているではないか。

   間もなく味方の舟艇が展開し、総攻撃が始まった。
すぐ後の速射砲の轟音が凄まじい。
我々工作班は用が無くなったので、舟底に伏せ時々覗き見る。
北門外2~300メートルに迫ると、敵は一斉に退却した。
洪水の為、北門の際まで冠水している。
逆光線に見る北門はさながら水面に浮かぶ竜宮城のようだ。

   その時、無人と思われた北門右側の城壁上に、
突如、敵の将校が上半身を表わし、眼下に迫る日本軍を睥睨していた。
一同あっけに取られた瞬間だった。
数秒間のことではあったが、その度胸には驚いた。

   城門を開けて突入したが、その間に敵は全員南門から逃れたとみえ、
捕虜は発生しなかった。

   工作班には一つの任務が有った。
前年の漢口攻略戦において、大別山方面で捕虜になり、
寿県城内に収容されていた日本兵1名を保護するように命じられていたのだ。
状況は厳しいが監獄のある県政府に直行した。
しかし誰も居ない。
鉄の錘の付いた足枷が幾つか転がって居るだけだった。
捕虜北山一等兵は、日本軍接近と同時に処刑されていたと、後日判明した。

   ところで、なぜ、帰順の密約が破られたのだろうか。
攻撃の3日前、日本軍に帰順予定の部隊は突然排除され、
抗日意識旺盛な部隊と入れ替わっていたのである。
密約が漏れたのであろう。
3日前に蚌埠を出発した我々には全くその情報が掴めていなかったのだ。
お蔭で私は希望通り、たっぷりと弾丸の飛び交う中に身をさらすことになったのである。

 

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