第13話 素晴らしい女性たちとの出会いと別れ


恋の芽生え


昭和19年春蚌埠特務機関に復帰してすぐ、日本語講習会を担当させられた。
   週に1回、20人ほどの生徒が集まっての、教科書も無い講習会だった
   ところが小姐(シャオチエ:娘さん)三人組が熱心に質問してきた。
王小姐、黄小姐、朱小姐の3人だった。

  授業が終わっても質問を続け、だんだん日中の政治問題を論じるようになった。3人は鋭い言葉で日本の侵略を非難する。日本人の私に向かって臆する様子も無い。見事に自分の意見を言う娘達だった。
   やがて王小姐と黄小姐は来なくなった。
   二人は奥地の貴州省省都貴陽に出来た国立大学に入学する為、半年近くの長旅をして、無事、貴陽に着いたと後で朱小姐から聞いた。
   漢口まで舟で、その先は重慶を経て陸路。複雑な地形の奥地を何千キロ、馬車に乗ったり、歩いたり、5ヶ月以上かけてまでして大学へ。日本では想像も出来ないひたむきな向学心には、心から敬服した。

   講習会は生徒が減って解消したが、特務機関の若手が中国語を習いたいと言うので、朱小姐に依頼した。
   後で分かったのだが、朱小姐は小学校を1年飛び級して中学に進んだ才媛で、小学校教師をしていたが、その頃は収入の良い蚌埠合作社(農協)に転職していた。年は私より一つ下だった。毎週1回、私達の宿舎に来てもらい、中国語の授業が終ってから皆とゆっくりお茶を飲んで帰った。
   真っ暗な夜道を家まで送る二人だけの時間は、つかの間の平和で楽しいひとときだった。
   だんだんに、南京戦当時からの苦労話も聞かせてくれるようになった。
南京郊外の実家から家族ばらばらになっての逃避行の末、蚌埠に落ちついたそうだ。

   彼女とあまり年の違わない姪達二人が彼女を頼って蚌埠に来て、一緒に住むようになり、私は彼女らの家にもお茶に呼ばれるようになった。
   姪たちもざっくばらんな性格で、お喋りは楽しかった。
   昭和19年の初夏には、10キロ上流の懐遠へ、石榴の花見に彼女達と出かけた。楽しく懐かしい想い出である。

   朱佩卿小姐と私はいつも日中両国の関係修復の重要性を話し合い、両国民が互いに理解し合う為に働きたいと思うようになった。
   戦争が終わって、もしも生きて会えたなら結婚して、両国の為に働こうと誓い合っていた。

 


女性布教師 王さん

昭和19年の秋、寿県に拠点を作った時、真っ先に行って見たのは、以前アメリカ人宣教師が教会と病院を開いていた場所である。
   そこでは3年前に凄惨な戦闘があり、日本軍は病院に逃げ込んだ敗残兵を容赦無く引きずり出し13名を斬殺し川に流したと言う捕虜虐殺事件があった。     激しい抵抗を受けた日本軍は、皆、殺気立っていたのだ。

   当時、たまたま斬殺場面を見た私は、日米開戦でアメリカ人宣教師が帰った後のあの教会と病院が気にかかっていた。
   行ってみると病院は細々と診療を続け、少し離れた教会には王帥礼さんと言う中年の女性布教師が一人、下僕と暮らしていた。凄惨な敗残兵狩りを目の当たりにしてから、彼女は日本軍憲兵やそのスパイが恐ろしくて教会から一歩も出られなくなっていた。信者たちも恐ろしくて教会には近寄れない。
   彼女は3年間、閉じこもって寂しく暮らしていたのだった。

   あまりにも気の毒なので、工作活動の合間に度々訪ねて色々話すうち、王帥礼さんも心を開いてくれるようになった。
   仏教徒の私にも彼女が敬虔なクリスチャンで、知的で素晴らしい人である事が理解できたので、彼女が自由に外出も旅行も出来るように、身元保証書を書いてあげた。

   合肥に転勤後も、たまたま蚌埠で王さんに会う機会があり、朱佩卿さんを紹介した。
   彼女達がたいそう親しくなったお蔭で、後に私は救われる事になるのだが、初対面の時王さんは、あまりにも聡明な朱さんを、重慶側のスパイではないかと疑ったそうだ。私達の仲を見て、こんな知的な女性が日本人に接近するとは思えなかったからだと言う。


終戦前後


昭和20年3月、私が地雷により重傷を負った時、朱さんは大きなショックを隠さなかったそうだ。
   私は幸い蚌埠で療養していた。頭痛が激しく食欲が全くない私に朱さんは料理を作ってはせっせと運んでくれたのだが、なかなか喉を通らなかった頃彼女はとても悲しそうにしていた。

   彼女は大変面倒見の良い人だった。特務機関の台湾出身のタイピストが日本人同僚にいじめられて辛い思いをしていたとき、朱さんに世話を頼んだところ、日本語しか解からない台湾の娘を同居させて可愛がってくれた。このような彼女の性格によって、彼女の部屋にはいつも同居人がいるのだった。

   怪我が治ると私は又合肥に戻ってアルコール造りに熱中した。
   やがて8月9日のソ連参戦を知り、近付いた死を思い、命令を無視して蚌埠まで朱佩卿さんに別れを告げに出向いた。
   いったん合肥に戻り敗戦を迎え、九竜崗までの無茶な逃避行の数日後、船便を得て蚌埠に着いた。
   その日、最後の日本人引き揚げ列車が蚌埠を出発するところだった。
   そこに二村総務以下3名を残して、他の機関員が乗車するので見送りに行った所、なんとその列車に朱佩卿さんが乗っていた。
   私が南京に向かったようだと誰かに聞いて後を追おうとしたところだった。
   彼女は驚いて列車を降りてきた。

 


結婚を目指して

その後、機関の戦後処理も終わり、厳彩光参謀を訪ねて第7軍の幹部達に大歓迎の宴を開いてもらった。
   私は中国人になりすます事に決め、この地域では日本人と知られているので、今後の事は南京で考えようと、朱さんと一緒に列車に乗った。
   上海に向かう二村総務達と別れ、私は大学時代居候をしていた日本山妙法寺に入り、彼女は市内の叔父の家に寄って蚌埠に戻った。日本山妙法寺にはお坊さんが二人おり、居留民もまだ多くいたが、次第に引き揚げが進み、残留者は1ヶ所に収容される事になった。

   私は帰国するつもりはなかった。東京大空襲の後、目黒の家族からは便りが途絶え(軍事郵便が機能しなくなっていたためだったが)、一家全滅したと思い込んでいたから、中国人になりすまして朱さんと結婚するつもりだった。
 そこで朱さんの叔父の家に間借りする事にした。一年暮らせる資金も持っていたし、中国人の身分証も入手していたので、ゆっくり職を探して生活を立てる予定でいた。

 叔父という人は阿片中毒で全くの無気力。収入がある風にも見えなかった。
妻は実家に帰って息子と暮らしており、彼は一人ぶらぶらしていた。8年前の南京大虐殺のときに居合わせた人だから、精神的に参っていたのかもしれない。
 その頃、朱さんは王小姐と言う、17歳の、身よりのない部下を自室に住まわせて可愛がっていた。そこへ、行方不明だった王小姐の父が、無事、重慶から戻ってきた。元淮南炭鉱の鉱長であった父親は、案じていた娘が大変お世話になったと喜んで、後日再開した淮南炭鉱立小学校の校長に朱佩卿さんを迎えたのだった。

   南京に落ち着いてしばらく後、私はいきなり酷い下痢に襲われた。コレラだった。
   ようやく回復した頃、猛烈なインフレになった。国民政府の経済地盤が弱いので、貨幣価値は一挙に下落。
   一年暮らせる筈だった所持金はたちまち底をつき困窮してしまった。

 

地獄で仏

終戦後3ヶ月あまり経った頃、寿県の教会を守っていた王帥礼さんが、戻ってきたアメリカ人宣教師から、南京の鼓楼教会の主任布教師
に任命され赴任して来た。
彼女は上海の元蚌埠特務機関員の滞在先に出向いて私の所在を尋ね、朱さんの手づるで南京にいると聞き、朱さんに問い合わせて私のところに来てくれた。12月に入った頃だった。
   インフレやらコレラやらで困り果てていた私には正に地獄で仏。
   彼女はすぐ又上海に走り、二村総務の伝言メモを持ち帰ってくれた。そこには、
「かつて蚌埠にいた三石大尉が、今井少将(総司令部を代表して沚江会談に臨み終戦交渉に当たった人)の副官として元の官舎にいるから、相談に行くように」
と書いてあった。
   翌日訪ねた三石大尉は「今頃まで何をしていたんだ?」と驚きながら、
「丁度良い。中国陸軍総司令部から、日本軍が焼却した対中共軍作戦資料を再製して提出するよう命じられ、関係者を集めて組織を作っているが、庶務、通訳、サイドカーの運転手がいなくて困っていたところだ。君なら一人で三役こなせるから是非引きうけてくれ」
と頼まれることになった。
   再び日本人に戻る事にかなりの抵抗はあったが、当面有り難い救いだった。

悲しい別れ

生活は一変した。
   元日本大使公邸だった豪邸での暮らしが始まり、朱さんも数回訪ねて来てくれた。
   私の生活が安定したのは良かったが、将来の不安はつのるばかりだった。
   私は敗戦国の人間であり、中国では国民政府軍と中共軍の対立が激化していた。

   日曜日、教会に王帥礼さんを訪ねたが、彼女もまたこの国の変転に不安を感じていた。大衆は勝利に酔っていたが、毛沢東は着々と中国制覇の歩を進め、内戦は続いていたのである。その後、蒋介石の国民党がさっさと台湾に逃げ込んでしまうなどとは誰も予想していなかった。

   7月に入り、我々の「中国陸軍総司令部第二処図書室」と言う名の秘密組織は、完成した書類を提出して任務を終えた。
   そこへ唐突に「明後日、延原主任以外の全員は上海に移動せよ」との命令を受けた。
   元来捕虜である筈の立場では従う他なく、翌日教会に王さんを訪ね、朱さんと二度と会えなくなるだろうと伝えた。
   王帥礼さんには寿県でお世話した何倍もの御恩を受けた。
   朱佩卿さんとは将来を共にしたかった。
   でも日本人に戻ってしまった以上、帰国は避けられない。
   悲しい別れだった。

   上海では何もせずに、それまでの身分を保証されたままでしばらく自由に過ごした。

   あの時、南京から突然移動させられた理由が、後年、分かった。
   講和条約発効後に刊行された辻政信著「潜行三千里」を読んで、我々が上海に移動した翌日、辻氏があの邸宅に入った事を知った。
   英国から戦犯として追われていた日本軍の辻参謀に恩義を感じていた蒋介石は、極秘裏に彼を匿っていた。
  あの日、辻氏を重慶から南京に移動させるに当たり、彼を知る我々を遠ざけたのである。延原参謀は辻の後任者だったので残留させたのだろう。

 


家族との再会


2、3週間後、突然我々に、帰国命令が下った。
「全員、軍籍を隠して、民間人として帰国せよ」と言う。
「全員戦犯容疑者なので公然とは帰国させられない。しかしあなた方は中国の為に良く働いてくれたので特別に帰国させます」と言うことだった。
   戦犯を覚悟していた吉永憲兵中佐、宮下憲兵少佐は大喜びだった。
  他は、参謀部付き大尉が2名、中野学校出身の中尉と曹長、それに特務機関員の私と言う顔ぶれだった。
   後ろ髪を引かれる思いは私だけだったろう。

   中国側の指示で日本人会が出国書類を偽造してくれて乗船した。 
   船長以下全員日本人が運航する、アメリカの戦時標準船リバティー型一万トン。
   途中台風に遭い、一日遅れて4日目の早朝、九里浜の旧海軍水雷学校埠頭に接岸。
   思いもよらず再び日本の土を踏む事が出来た。

   焼け野原の東京に帰って見れば、目黒の五本木に家も家族も無事だった。
   家族には私が中国で結婚し残留したと言う知らせが届いていたので、お互いに再会は大変な驚きであった。

 

 

訣 別

   中国陸軍総司令部から、6ヶ月間の勤務手当てを円に換算して送るから、東京の中国駐日代表団で受け取るようにと指示されていたので、麻布の代表団を訪ね、総務主任の李少将から五千余円を受け取った。
   預金封鎖(激しいインフレの中で、預金を下ろすことを制限されていた)のため、扶養家族一人増すごとに百円増しにはなったとはいえ、一世帯月五百円の生活を強いられていた頃の五千円は予想外の大金で、大いに助かった。
   敗戦国の捕虜を使役して、後から給料を届けてくれる国が他にあるだろうか。驚きだった。

   日本の陸士に留学経験のある李少将は、達者な日本語で
「あなたは仕事がありますか?」と訊いてくれたので、
「ここで運転手に使ってくれませんか?」と言うと自動車主任を呼んでくれた。
   実地テストに合格し、表向き日本人は雇えないので、元の中国名でGHQのライセンスを取りドライバーになった。

   やがて中国空軍のB-24爆撃機が上海-東京間の連絡便として飛ぶようになり、乗員5名の東京滞在中専属ドライバーになった。
   そこで事情を説明し、朱佩卿さんへの手紙を託した。日中間の郵便はまだ回復していなかったので、これは滅多にないチャンスだった。こうして文通は続いたが国交回復の見通しも無く、再会は絶望的だった。

   昭和23年に入った頃、別れを告げる手紙が届いた。
「最近の情勢は厳しくなっています。手紙の往復もいつ止まるか分かりません。悲しい事ですがこの手紙を最後にします。どうぞ現実的に考えて、幸せを掴んで下さい。有難うございました」と言う内容だった。
   私も了解し、幸せを祈る旨最後の便りを書き、朱佩卿さんとの繋がりは消えてしまった。


   当時モータープールの管理を任されて、あまりの忙しさに疲れ果てていた私は、彼女との文通が終わったのを機会に退職した。
 中国との縁は完全に切れたのだった。

  やがて中国は毛沢東の中華人民共和国となり、蒋介石の国民党は台湾に逃れた。
  勿論、国民政府の中国駐日代表団も無くなった。
  朱さんや王さん達はその後の文化大革命など、インテリには厳しかった時代をどう過ごされた事だろう。
  幸せであって欲しいと切に思う。


 『日中戦争の中の青春』 終わり 

 

 

 

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