女学校
小学二年生の夏から暮らした、小さい平屋は、細いバス通りから、路地に曲がって三軒目の左側、奥に引っ込んだ家でした。 バス通りはアスファルトでしたが、路地は土で、幅3
メートルもあったでしょうか、真ん中に四角い飛び石が並べて有りました。
子供たちはその路地で、様々な遊びを考え出して遊んでいました。 物資はどんどんなくなって、おもちゃなどは買えません。 学校にゴムマリが配給されるのは、一組に3
個ぐらい、くじ引きでした。 運良く手に入るとマリつきに熱中しました。
「いちれつらんぱんはれつして、にちろせんそうはじまった・・・」 わけのわからない歌詞のマリつき歌にあわせて、スカートをたくし上げては膝の下にマリをくぐらせるのを得意にしていました。(昭和17
年頃はまだ「もんぺ」を強制されてはいませんでした。)
おもちゃは自分で作るもの、お手玉は小豆など入れられませんから、そこらに生えているじゅずだまを入れますが、あれは軽すぎて具合良く有りません。 お隣にエゴの木があって、その実で作りましたがこれもあまり具合良く有りませんでした。 それでも4
枚接ぎのお手玉を丹念に縫ったり、俵のお手玉にして、高く投げ上げたりしました。
昭和18 年6
年生になりましたが、この年から修学旅行が中止されました。 学年が一つ上だったら旅行に行けたのに、となんとも口惜しい思いでしたが、何事もお国のため・・・、文句は言えませんでした。 「欲しがりません勝つまでは」の時代でしたから。 確かに空襲が始まっていて旅行どころでは有りませんでした。
学童疎開は昭和19 年に始まったでしょうか? 私は高等女学校(今の中高一貫校のような5
年制の学校)一年生になっていましたので、疎開は命じられませんでした。 しかし、縁故疎開は勧められ、田舎のある人は、次々に引っ越して行きました。 家には田舎がないので、目黒にいるより仕方有りませんでした。
昭和19
年、念願の女学校に合格。 三本線のセーラー服がかっこいい憧れの学校でしたが、その年からよれよれのステープルファイバー(スフ)のへちま衿ブラウスになり、上着は衿なし。 ヒダのスカートは無くて、みんな和服をほどいて自分で縫ったもんぺを穿いていました。(子供だって、自分の服は縫いました。)
ですから、へちま衿には怨みがあって、大嫌いになったものです。(女学生はセーラー服が憧れでした。)
女学生も工場に動員されることになりましたが、一年生は学校に残って一応勉強。 課外活動にお琴と鼓笛隊があって、お琴は2 年からでも入れるが、鼓笛隊は1
年からしか入れませんでした。 どちらもやりたいので先ず鼓笛隊に入って横笛を吹きました。 ピッピッと歯切れ良く吹くのが得意でした。
でも2 年にならないうちに学校は空襲で焼け落ちてしまいましたから、お琴を習う夢はかないませんでした。 たとえ焼けなくても、2
年生以上は工場に動員されましたから、お琴など習う機会はなかったのですが。
昭和20 年3 月10
日夜は、東京大空襲。 下町の空は真っ赤でした。 あれは密集した下町を円く炎で囲んで、女子供を一人も逃さないという絨毯爆撃でした。 きわめて非人道的な、ゲルニカを真似たような空爆でした。
その晩、山の手は無事でしたが、やがて、働きに行くはずだった軍需工場も灰になり、2
年生の私たちは灰の中から貴重な真鍮や鉄の部品を拾い出す作業を、敗戦まで続けました。 4 月か5 月か忘れましたが、山の手にも焼夷弾の雨は降りました。 その話はいずれまとめます。
◆中谷久子さんと同年代の少女達の戦争体験文集
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