第6話 敵のスパイと親友になって戦闘をとめた話

敵軍・厳少佐との出会い

     蚌埠特務機関に復帰した私は、昭和19年春、対峙する敵、重慶軍第10戦区第7軍の情報を得る為に、「寿県に拠点を持ちたい」と上司のP情報主任に提案した。
   敵側に対する米軍の支援の状況、米軍の飛行場に関する情報等を得たかったのだが、「無駄だ」の一言で片付けられてしまった。
   そこで桜庭機関長に直訴したところ、
「良かろう、やって見ろ。責任は俺が取る」
と言ってくれた。P情報主任はさぞ不愉快だったことだろう。

  桜庭機関長は弘前出身の温厚な人物で、敗戦後、旅団長として戦争犯罪人容疑を受け収容されたが、彼の善行を申したてる中国人証人が多く、将官としてはただ一人無罪となって帰国した。
   彼の腹心、ニ村総務は会津若松出身、弁舌鋭い熱血漢で酒豪。
   二人は信頼厚い名コンビだった。

  桜庭機関長らの支持を得て、その年の秋、私は一人で寿県に赴任、
「昭和通商」という、得体の知れない会社の出張所に一室を借りて拠点とした。
(昭和通商は陸軍中野学校のダミー会社だったのではないかと思っている)

  そんな折、ニ村総務が「厳竹坡」という青年を紹介してよこした。
  彼が二重スパイである事を承知の上で、私は接触を続けていた。

   ある日、現地の商人の家で開いた宴会の席で、厳竹坡は、わたしと第7軍参謀「厳彩光」少佐を引き合わせた。
 厳少佐は日本軍を探る為潜入して来たスパイなのだが、突然、厳竹坡から
「この席に日本人が一人いるんだよ。誰だか当ててごらん」
と言われ、顔色を変えて見回した。しかし分からない。
「私だ、お近づきのしるしに乾杯」
と私が近づくと、彼は驚きを隠さなかった。
東洋鬼(トンヤングイ:東洋鬼)とか鬼子(グイズ)とばかり聞かされていた、恐ろしい日本人に初めて会ってみれば、自分たちと同じ人間に見え、話しが通じることに驚いたと言う。

  厳少佐は桂林の中学を出たと聞いていたので、
「胡蘭成先生を知っているか?」と訊いて見たところ
「私の恩師をどうして知っているのだ?」と彼。

     桂林中学の教師をしていた胡蘭成は、南京で雑誌「苦竹」を出版した人物でもあり、歯にきぬ着せぬ鋭い文章で重慶と南京の両政府を批判していた。
そのため、「苦竹」は第二巻まで出たところで、発行禁止処分になってしまったのだ。私はそれを読んでいた。

     私は厳参謀に、蚌埠に行ってニ村総務に会うように薦めた。
   対米戦をひかえていた我々の目的は、第7軍の内情を密かに探り、淮河上流から物資を買いつけることにあった。

    私を信用してくれた厳参謀をニ村総務に紹介した。
   ニ村総務は、厳少佐が希望する通り、南京・上海の旅行をさせた。
   厳少佐は南京で胡蘭成先生を探したが、見つからなかったそうだ。


第7軍を巻き込む戦闘回避作戦

    第7軍はベトナム国境に近い広西省の山岳民族の部隊で、中国軍の中で一番強いと言われていた。漢民族とは違い精悍な容貌。厳少佐も背が高く浅黒くて、ギョロ目だった。彼の叔父が司令官だった為、話しは早く、彼が南京・上海から、沢山のお土産を持って帰ると、じきに、淮河交易が盛んになった。

     商人達は上流から筏を組んで蚌埠へ行き、帰りは蒸気船や陸路を利用した。
行きは渋紙を貼った大きな竹籠の底に旧銅貨を隠し、その上に牛脂を詰めた。
日本軍にとって、古い銅貨は弾丸の薬莢に、牛脂はニトログリセリン、
つまりダイナマイトの原料になる。
   筏の松材も、海岸の陣地構築の為に使われた。米軍の上陸なしに敗戦を迎えたから、結局、役には立たなかったが。

     商人達は、帰りは塩、砂糖、マッチ、高級布地、乾電池などを手土産にした。
いずれも統制品だが、両軍の了解の元で平穏に商売は展開した。

     こうして、これで両軍は終戦まで血を流すこともなかった上、第7軍幹部はかなりの儲けも得ることができた。
   連携プレイが大成功したこの工作は、桜庭機関長とニ村総務と私の三人だけが知っていた。

     桜庭少将は、その後すぐ、旅団長として、湖南省方面に転任となった。
   一方、私は、厳少佐と一緒に第7軍を訪問しようとしていた矢先、上司の邪魔によって、12月、合肥に転勤させられてしまった。

     しかし、そのときすでに、厳彩光少佐とはすでに親密な友情が生まれていた。
少佐と言っても彼は、当時私と同じ24歳である。敗戦後、蚌埠に彼を訪ねた時、私は第7軍首脳達の大歓迎を受けた。

「中国人になりすまして残留する」
私が言うと、彼らは拳銃や腕時計などを法外な値で買い取ってくれた。それは1年間暮らせるほどの大金だった。

     終戦当日、厳少佐は蚌埠にいたおかげで、その地域の武装解除がとても穏やかに進行した。
   第7軍の監視所は、丘の上の蚌埠神社に設置された。
   日本軍収容所の門衛には日本兵が立った。

   重慶側が一般兵士を街に入れないよう配慮してくれたので、明るく平穏の内に、終戦処理は行われた。2、300名の日本人居留民も、混乱なく上海に向かうことができ、日本軍の各部隊も整然と復員できたのである。