黒煙に追われて

 

昭和 20 年春は、毎晩のように空襲警報が鳴り響きました。 寝間着になんか着替えてはいられません。 昼も夜も同じもんぺ姿。 毎晩まどろむ頃に空襲です。 昼間疲れ切っているし、栄養状態は最悪だし、眠くてたまりません。 空襲警報の大音響に気付かずに、ぐっすり眠っていた事さえ有りました。
でもその夜は、B29 の爆音は間近でした。 頭の上を編隊が通り過ぎたと思ったら、南の方から煙が上がりました。 油屋が燃えたとかで、炎は見えずに黒煙が辺りを包みました。 むせっかえるほど煙くて居たたまれず、母と二人で西の世田谷方向へ逃げました。 南風だったからです。
そのとき、隣組組織は一切機能していませんでした。 一緒に逃げようと言う暇もなく散り散りに逃げたのです。 坂を下りるともう煙は追ってきませんでしたし、辺りには畑もあって、安全な場所でした。 ほかに逃げてゆく人が居たのかどうか、暗がりでも有り記憶に有りません。
その辺に居ればよかったのですが、逃げ始めると足が止まらなくなるのですね。 何故か 3 キロ先の練兵場(軍隊が訓練する広い原っぱ)まで行ってしまいました。 そこには兵舎がありましたから、より危険なはずなのに、煙から逃げる心理は、ただただ広い原っぱに行きたかったようです。
塹壕(竪穴)の中にへたり込んで、辺りを見回すと、360 度どちらを見ても赤々と炎に映える空でした。 いずれも遠くでしたけれど。 絨毯爆撃ではなく、点々とあちこちが燃えたようで、3 月 10 日のような物凄い人的被害は起きなかったと思います。 死者が何人と発表される時代では有りません。 近隣の被害でさえ、死者数は知り合い以外わかりませんでした。
翌朝、『ああ、とうとう焼け出されてしまったわね』といいながら戻ってみたら、隣組の家並みはちゃんと残っていました。 数区画先まで焼けてきて、いきなり風向きが逆になったとのことでした。 でもそのとき、それほど喜ばなかったのは、どうせ明日には焼かれるだろうと思って居たからで、ただ、今夜はとにかく布団に寝られると、ほっとしました。
庭の防空壕(ただの穴)を見たら。 ピカピカ青光りするハガネのバンドが落ちていました。 バネのようで、端に引っかかる止め金がついていました。 後にそれが、焼夷弾を束ねていたバンドである事がわかりました。 これが当たっても死んだかも知れません。
日本では、金属がなくて、鍋釜から指輪まで供出させられていたのに、アメリカは、焼夷弾を束ねるだけのバンドに、ピカピカ新品の鋼(はがね)を使っていたのかとあらためて驚いたものです。 それからも毎晩警報は鳴りましたが、近所に焼夷弾が落ちることは有りませんでした。
私たちは煙に追われただけで、火に追われたこともなく、死者の姿を見ることもなく、家も焼かれず敗戦を迎えることが出来ました。 東京の人間としては実に幸運だったと思います。 家族は誰も戦死しなかった。 そんな大幸運に恵まれながら、しかし戦後のインフレで、以後、学校には行かれなくなったのです。 それは私には大変なことで、学歴なしの大きなハンデを背負って、生活と戦うことになったのです。

練兵場脇の兵舎は、最後まで焼かれず、敗戦後暫く『引揚者住宅』になっていました。

 

 

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