ニセ学生になってアルバイト

 

ハウスメイドをクビになってから、色々な仕事にチャレンジしても、全部駄目でした。 兄も中華民国代表部のドライバーのリーダー役があまりの激務なので疲れ果てて辞めていました。 兄はその頃ヤミの魚屋を手伝っていました。 二人で小船を出して船橋沖で、入港前の漁船から魚を買い付けてヤミ市で売るのです。
漁船は港に入ると、公定価格で魚を売らなければなりません。 インフレは毎日進むのに、国の決めた公定価格は一定です。
だから沖でヤミ屋に一部を売るのです。 ヤミ屋は秋刀魚などを大量に仕入れてどこかにそっと上陸し、売りさばきます。 品物さえあれば闇値でどんどん売れるのです。 物資は闇に流れ、公定価格の品が少ないから、公定価格の配給はほんのわずかしか消費者に届かなかったわけです。
しかし、兄たちのヤミ舟は遭難してしまいます。 エンジン故障で船橋から横浜三渓園沖まで流されて座礁、舟は壊れ積荷は腐ってしまいました。 二人は命からがら岸に上がったのです。 私がこの話を初めて聞いたのはつい最近の事でした。
昭和 23 年の 11 月、たまに帰宅する兄が、「江戸川の方で、学生にノート売りをさせている人が居る。 やってみないか?」と私に言いました。 すぐ行って、学生でもないのに、仲間に入れてもらいました。
でも、この「再建学生連盟」なる組織はいいかげんなものでした。 飲んだくれの親父さんが、利益を求めて始めたようです。 資本を投じて学生を援助するのだと威張っていましたが、商売の知恵が全く回らないのでした。 交通費をかけて本部に行っても商品が品切れで、仕事にならない日が何度もありました。
ノートのほかにはさらし飴を仕入れただけで、もっと売れる商品をといくら言っても聞き入れません。 資金が無かったのでしょう。 酔っ払っては「もっと働け」とお説教ばかりするおじさんは、学生達に全く人気が有りませんでした。 都内には幾つもの学生連盟があって、しっかり活動している組織では、ノートの卸値がもっと安かったのです。 でも学生証を持たない私は、よその連盟に鞍替えするわけには行きませんでした。
連盟本部で、ノートや飴を仕入れたら、バスで新小岩に出ます。 タバコ屋に預けてある折りたたみ式の台を持って、何処かの駅に行き、交番に断って、小さな台の上に商品を広げ、メガホンで叫んで売るのですが、場所次第で儲かったり、交通費ばかりかかって赤字だったりしました。
私はいつも一人で出るようになっていましたが、ある日ベテランの男子と一緒に行きなさいと言われました。 初めて組んだ二人は蕨に出ましたが、労働争議のデモの騒音で全く売れず、川口も駄目で日が暮れました。 「上野に行きましょう。 良い場所がある。」と彼。 京成上野駅の真向かいに、みかん売りのおじさんと並びました。 「あなた一人のほうが良く売れますから。」 彼は遊びに行ってしまい、私一人で沢山売りました。
真冬の夜の上野には、パンパンガールだけでなく、和服姿のオカマさんたちが居て、もうびっくりでした。 9 時半過ぎ彼が戻ってきて、儲けを折半し、連盟へ戻っての清算は全部引き受けてくれました。
私はいつもより多い儲けを手にして手ぶらで真っ直ぐ家に帰る事が出来たのです。 いつもなら残りを担いで連盟に戻って清算して、終バスに乗り遅れると、寒風吹きすさぶ小松川橋を歩いて渡って、都電で錦糸町に出てから帰るので、家には 11 時過ぎにつくのでしたが、この夜は楽でした。
そのうちに仲間の東洋大生が「傷物の鏡を売らせてくれるところがあるんだけど」とそっと教えてくれました。 さっそく紹介してもらうと、リュックいっぱい鏡を貸して頂けました。 輸出できない傷物で、ガラスは青いし、表面は凸凹、歪んで写ったりする鏡。 しかしそんな粗悪品しかない時代で、デパートにもそんな商品が高値で出ていました。
少しぐらい傷があってもデパートよりはるかに安いので良く売れました。 戦災に遭った人は鏡など持っていませんでしたから。
立川で仕入れたリュックいっぱいの鏡を背負って、台が無いから家の棚板をはずして持って行きます。 自由が丘などの駅前で、宝くじ売りのおばさんなどに荷物を見ていてもらい、交番に断りに行って、果物屋でりんご箱を 3 個貸してもらいます。 箱に棚板を渡して、模造紙にクレヨンで書いた看板を下げ、鏡を並べます。 その並べ方で、駅の事務所に反射して、「まぶしくて仕事が出来ないから向きを変えなさい」と叱られたりしました。
私には当面 4 千円貯める必要が有りました。 編み機を買って、習いに通って編み物で自立しようと思ったからです。

 

 

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