野草とかぼちゃとイナゴ

 

配給は当てにならず、常にお腹がすいていたので、皆食べられるもの探しに懸命でした。
土の道だから雑草も生えてはいましたが、ハコベやタンポポはご馳走で、アカザやギシギシはあまり美味しくない。 それでも生えるそばから食べつくしてしまいました。 ツクシやノビルのような美味しい草は街にはありません。 いつも、食べられる草は生えていないかと、下を見て歩きました。
畑にするほどの庭はなかったけれど、サツマイモとじゃが芋を 2 本ずつ位植えました。 縁先にかぼちゃを 4 本ぐらい蒔いたのですが、つるを這わせる地面がないので、竹竿で屋根に誘導しました。
逞しい栗かぼちゃは、どんどん屋根に上って花をつけました。 私は毎朝早く、はしごをかけて屋根に上り、咲いたばかりの雌花にオシベの花粉をつけて、花びらを閉じて結びました。 屋根の上に大きなかぼちゃが 6 - 7 個出来たでしょうか、一番大きいのは一貫三百匁(5 キロ弱)有りました。 (ウチには大きな台秤が有ったのです。)
毎日屋根の上を歩き回ったので、後に酷い雨漏りを引き起こしてしまいました。 瓦屋根の棟の上を手放しで歩くのを得意にしていたオテンバな私だったのです。
かぼちゃの茎は蕗のように煮て食べました。 葉っぱは焼いてもんで、まずいけれどふりかけに。 サツマイモの茎はご馳走でした。 きんぴらにする油はなかったし、マトモな醤油も無かったけれど、でも結構な食べ物で、今でも好きで、見つけると買います。 皆さんご存知ですか? 『わさびの茎の佃煮』には、サツマイモの茎がわさびより多く入っていると、ちゃんと表示されている事を。
子供同士で電車に乗って、イナゴ捕りに行ったのは、敗戦後だと思います。 たんぱく質に飢えていたので、横浜の綱島辺り(今では高級住宅地)の田んぼに行って、イナゴを捕って来ては、佃煮にして食べました。 形が気味悪いなどと言っていられず、長い足が硬くて上あごを刺しても、そのままバリバリむさぼるのでした。
佃煮を煮たくても、ろくな醤油はありませんでした。 代用醤油というのは、色だけが似ていて、味は似ても似つかないヘンなものでした。 塩の配給も遅れてばかり、本気で海まで水汲みに行きたいと思いましたが、遠すぎて無理でした。

 

 

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