パンパンガール

 

盛り場には、からだを売る娘達がたむろしていました。 何故かパンパンと呼ばれて軽蔑されていました。 でもあの当時、売春をする人を軽蔑できないと思っていました。 何人もの弟妹を抱えたお姉ちゃんは、自分を犠牲にしない限り全員を飢えから救う道はなかったのですから。
焼けトタン小屋や、防空壕に住みながら、明日の食料を稼いでくるには、女の子に良い仕事なんか有りませんでしたよ。 復員したお父さんが病弱で働けないという話も良く聞きました。 心身ともにぼろぼろになって命からがら復員した人が多かったのです。
一方では、軍の物資をごっそりせしめて帰宅した軍人も居ました。 軍の食料や毛布などをトラックで持ち出してヤミで売ったと得意げに語る人も居ました。 ごく一部の人間は儲けたけれど、大多数が飢えていた時代でした。
昭和の初期には、疲弊した農村から娘達が売られた・・・。 戦争に負けたら、働き手を失った家族のお姉ちゃんが犠牲になった。 いつも辛い目に遭うのは娘達でした。
進駐軍兵士の腕にぶら下がって歩く女性も目立ちました。 みんな背が低くて痩せていました。 フレアーのロングスカートをハイヒールでなびかせて、真っ赤な唇の女性たち。 米軍将校のお妾になって「オンリーさん」と言われた女性たちは、実家に豊富な食料を届けました。
米兵と恋をして、結婚して日本で暮らしていた間は豊かだったのに、除隊になってアメリカの夫の実家に着いた時、自分が極貧の家庭に嫁いだ事に気付く人もかなり有ったそうです。 軍隊の給料がなくなり、仕事もなくて、酒におぼれ暴力を振るうようになった夫と、ようやく離婚出来ても、日本へ帰ることは出来ないまま、厳しい人生を送った話もしばしば聞きました。
私には母が居て、家もあって、どうにかあの食糧難を乗り切れた。 恵まれた方なのに、それでも学校にだけは行かれなかったのです。

 

 

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