バスガールの暮らしに飽きたらず

 

バスには 9 年あまり勤めました。 (退職時、厚生年金を脱退するよう言われた事が返す返すも残念です。 良く解らず一時金を貰って 9 年分を棒に振りました。) 仕事は一生懸命やりました。 良く通る大きな声で「オーライ」とやって、運転手にも合図がわかりやすいと喜ばれました。
指導車掌になり、新入社員を見習いにつけました。 毎日連れ歩いて、2 週間で一人前にしなければなりません。 良い見習いさん達に恵まれ、見習いを離れても、皆、木曜公休の仲間になるので、私は良くみんなを引き連れてハイキングに行ったり、新宿の歌声喫茶に行ったりしました。 みんなから「オネエサン」と呼ばれ、いまだに「オネエサン」と呼んでくれる人が居ます。
運転手さんの中に気の合うおじさんが二人居て、同じ月刊雑誌を三人で順番に買って回し読みして、読み終わると全部私にくれました。 その雑誌などからも民主主義にかぶれて、男女同権を主張し一部の運転手とけんかもしました。
休憩室を汚すのは男、休憩時間に掃除させられるのは女、「汚した人が掃除してほしい」と言って、女の癖に生意気だと怒られましたが、喧嘩相手の運転手とは、仕事中は文句つけられないように、特にきびきびやって見せました。 男尊女卑の甚だしい会社でしたから、セクハラ、パワハラ、猥談は毎日の事でした。
私は曲がった事が嫌いで営業所長に文句をつけて、言い分を通したりもしました。 所長の見間違いを指摘して、不当に叱られた運転手をかばったら、話のわかる所長から気に入られた事も有りました。 その方が、前の話で友達の首を助けてくれた、前所長なのです。 後年出世されたと聞きます。
色々充実してはいたのですが、車掌の仕事は長く続けておばさんになっても、他の職種に栄転なんてありえません。 努力し続けても、何も学ぶところが無いのです。 休みが木曜だけなので、学校にも入れません。 通信制でも到底無理でした。
学歴コンプレックスがあったので、何かで自分を確立しないと、いたたまれない思いがありました。 そこで 24 歳のとき大学生グループの仲間になってボランティアに熱中しました。 保護司さん(五十代の医師の奥様)を手伝って、恐喝暴行で特別少年院に行ってきた 19 歳の少年の姉役を引き受けたのです。 当時の非行少年は今と違います。 もっと純情。
海軍軍人だったお父さんの暴力、お母さんは離婚して出て行き、15 歳にならないうちから手がつけられなかったと言う少年ですが、木曜に遊びにおいでというと、朝から母と私の六畳一間の家に来て、炬燵代わりの猫アンカにかけた布団に寝そべって、一日中他愛ない事を喋り続けます。
母も私もそれぞれの家事や縫い物をしながら相槌を打つだけで、何も言いません。 家庭の雰囲気だけ与えたかったのです。 暴れん坊が、行き場をなくしていたうちはまだ安心でした。 でもそのうち「新宿の親分に体を売っちゃったから、もう俺にかまうな」と言い出しました。 保護司さんは、彼の言う事を真に受けて、もうあの子に近づいてはいけないと私を止めました。
でもそんなことで引き下がる私ではないので、彼が泊まっていたお母さんの職場へ押しかけました。 お母さんは都心の大通りに面した事務所に住み込みで、雑役婦をしていました。 夜なのにあいにくお母さんは留守、困ったけれど 2 階の応接間で彼と対峙しました。
私たちのおせっかいがわずらわしくなっていた少年は、やがて「窓からおっぽり出すぞ」と脅しました。 放り出されても、ここは 2 階だし ・・・ 私は「何をしようとあんたの勝手だけどね、心配するのはこっちの勝手だ。 文句言うな!」 一歩も引き下がらず、彼は根負けしたようでした。 数日後、新宿の親分の話はウソとわかりました。
そのうち彼にステキな恋人が出来ました。 彼女の力は絶大、私は安心してバトンタッチ、以後彼とは会いませんでした。 やがて彼は彼女と結婚して、親譲りのやんちゃな坊やが出来たと保護司さんから聞きました。
その後も、いろんな少年とかかわりましたが、ここまでかかわれた子はいませんでした。 大学生達も大勢ボランティアをしていましたが、私のようにとことんのめりこんで活動する人は居ませんでした。
バスの仕事はアルバイトで、非行少年の姉さん役が本業だと私は思っていたのです。 何とかして学校に行って、当時明治通り沿いにあった、「社会事業大学」に行こうと、まだ思っていました。 その後、グループのリーダーからひどい裏切りに遭いました。
少年とかかわった頃の日記を研修資料として提出してくれと委員長(慶応を出て保護観察官になっていました)からいわれ、絶対外部には出さない約束で、書いて渡しました。 彼はそれを外部に配ってまわったのです。 マスコミの取材申し込みにびっくりし、委員長に対して怒りをぶつけました。
すると彼は、「この運動を大きくするためには宣伝が必要だ」といって映画プロデューサーを私に紹介したのです。 私は「実際の資料を使うことは絶対に断る。 色々な人の体験談をまとめて、一つのストーリーに書くことは出来ます。」と言いました。
そこで、私は生涯にただ一度、小説を書きました。 委員長に渡すと、プロデューサーは私を田中澄江先生のお宅に連れて行きました。 脚本の依頼を聞くと田中先生は、冒頭部分に目を通して、私に質問し、「拝見します」と原稿を預かってくださいました。
ところがその頃、委員長は、別のルートで日活に私の元の資料を売り込んでいました。 先のプロデューサーが、怒りながら私に連絡してきました。 「委員長に先を越された。 日活で映画化が決まったそうだ。」私はぽかんとしました。 そこで又、「私の資料を一行でも使ったら、承知しない」と委員長に怒鳴り込みました。
結果、作家が物語を書き、映画は、脚本、水木洋子。 出演、左幸子、小林旭、浅岡ルリ子で完成しました。 母親と二人暮しの、はとバスのガイド(左幸子)が、非行少年(小林旭)を担当して、追い掛け回すうち、少年と居酒屋で酒を飲み(ありえない)酔いつぶれて、少年にラブホテルへ担ぎ込まれる。(ますます ありえない)
左幸子の入浴シーンを撮りたいだけで、馬鹿なストーリーにしたものです。 何故か彼女が一人で入浴中に、少年はホテルを出て行く。 全くつじつまの合わないお話でした。 だから私とは関係ないと割り切れたのです。 興行成績も悪く、ボランティアの宣伝になんかなりえませんでした。
私がグループを辞めた後で、女子大生の仲間達が、教えてくれました。 「委員長はね、『中谷さんは、自分の原作を映画に出来なかったので、カンカンに怒っているが、あんな力の無いプロデューサーでは、いつ映画化されるか分かったもんじゃない。 日活に持ち込んだからすぐ出来たんだ。』って言いふらしているのよ。」と。
又、私は二重にダメージを受けたわけです。 私は、コピーをとっていなかった私のたった一つの小説が、田中先生の書斎のゴミになったことを怒っているのではなかった。 エリートコースを生きている委員長の、度重なる裏切りが許せなかったのです。
20 年ぐらいたってから、目黒の保護司会から電話で「あの時の映画の題名はなんでしたっけ?」と訊かれました。 私は原作の本の題名は覚えていたけれど、映画の題名は完全に忘れていました。 それに、実際の私の活動は、保護司のおばちゃまとの連携でやってきたのに、映画には一切保護司さんは登場しなかったのです。
委員長は当時、慶応大学を卒業して、保護監察官になっていましたので、保護司さんの果たした役割は、保護監察官の仕事とされました。 彼はじき監察官を辞めて、民間の大企業に転職したそうですが。
ボランティアにだけ生き甲斐を求めていたのに、足元をすくわれ呆然となったとき、今度はすぐ点字図書館に行ってみました。 朗読には自信があったので、すぐさま朗読録音を始めて、以後、何十年も視覚障害者の方々とお付き合いが続いています。
朗読と平行して素人劇団にも入りました。 新宿の保育園を夜だけ借りて、週に一度稽古をしました。 外郎売のせりふが得意になったのはそのときです。 芝居の発表会もしました。 「こだま」という母と息子の物語で、私は老け役でしたが、一応主役。 以来あだ名は「おかあちゃん」に。 楽しいモノクロ写真が残っています。 みんな貧乏で、劇団はやがて解散してしまいました。
一方、自分の生活は片思いの失恋ばかり ・・・、まるっきりモテない娘でした。 勇ましすぎましたからね!


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