当時の中国について

この物語を若い方に読んでもらうと、同じ疑問をもたれます。「中国と戦争していたのに、何故、中国軍の自動車に乗せてもらったり出来たの?」と。そうでした。その説明をしてからでないとこの物語は理解して頂けませんね。
この物語の舞台となる日中戦争当時、中国には主に三つの軍隊がありました。蒋介石の中華民国国民党は、日本軍に追われて奥地の重慶に政権を置き、日本軍と共産軍の両方と戦っていました。毛沢東の中国共産党は延安にあって、日本軍と国民党軍の両方を敵にしていました。もう一つはこれも『中華民国国民政府』と名乗っていましたが、実は日本の力を借りて南京に出来た政権でした。兄が仲良くしていたのはこの軍隊なのです。
 傀儡政権と蔑まれたこの政府を作った汪兆銘(精衛)は、その後、「売国奴」と言われ、墓も爆破されるほど憎まれたようです。「日本に利用され、蒋介石と戦ってその力を殺いだので、一番警戒していた毛沢東に天下を取らせる結果を招いた大馬鹿者」という見方がある反面、「売国奴の汚名を着ることを覚悟の上で、日中和平に賭けた愛国者」という同情的な見方もあります。私はどちらの見方が正しいかは知りませんが、少し歴史を紐解いて見ましょう。
日清戦争のとき、中国は清王朝でした。民衆は虐げられていました。孫文など革命家たちが日本で準備を進め、清王朝を倒したのが1911(明治44)年の辛亥革命です。日本人志士も多く参加協力しました。今も孫文は、中華人民共和国と台湾の両方で『国父』としてあがめられています。彼ら革命家は、「民衆を救う」という理想を掲げていました。
しかし1925年、孫文は、死の間際に汪兆銘に代筆させた遺書に「・・・現在革命未だ成功せず」と書いています。清王朝は倒したものの、さまざまな軍閥がはびこり内戦が絶えず、民衆の生活はますます困窮していたのです。
孫文は「日本とは戦うな」と言っていました。法政大学出身の汪兆銘も同意見でした。彼らは、ソ連の謀略と共産主義を何より危惧していたのです。
中国が一つにまとまれば、ソ連や欧米や日本につけ込まれずに、独立を護れるはずですが、当時、覇を競う各地のリーダーは「自分こそが中国を統一すべきだ」と皆思っていたので、一致して侵略者たちに立ち向かうことが出来ません。
さまざまな思惑が沢山の事件を生み、孫文の後継者の一人として革命を成就させようとした汪兆銘は、あらゆる策を弄して駆け巡りますが、ことごとく思惑が外れます。そして日本と協力して南京政府を樹立したのです。
彼自身は敗戦の前年、1944(昭和19)年に病死しましたが、妻は獄死し、子供たちは海外で散り散りになったそうです。彼が、「失敗すれば、一族は末代まで汚名を着ることになるだろう」とわが子に言いながら革命の理想を追い続けた愛国者だったのか、おろかな立ち回り方で日中両国に苦難の道を歩ませた元凶なのかは、知りません。
ただ彼の軍隊の一司令官だった王占林中将はなかなかの人物だったようです。日本の敗戦で日本軍以上に辛い立場に立たされたとき、「私は自分の信念で汪兆銘先生に従ったのですから後悔はしませんし、誰も恨みません。運命を受け入れるだけです」と、泰然として重慶軍に降り、中共軍と戦う最前線に送られて、壊滅したということです。

 

中谷久子

 

 

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