知っておきたい日本の歴史
戦後、義務教育から抜け落ちた明治・大正・昭和の歴史


戦後日本の歴史教育から抜け落ちた部分を知ることで、如何にして今日の日本があるのか。現在の日本が国際社会の中で、如何なる立場であるのか見直して、歴史上の過ちを繰り返さないことが重要だと思う。
 明治維新から太平洋戦争に至る激動の73年間を教えない現在の教育は、間違っている。中国や韓国に言われるまでもなく、日本人の歴史認識は抜け落ちている。文部科学省の教科書検定官の頭の中にも歴史認識はない。今、真実の歴史を知ることで、過去の過ちを繰り返さない知恵も生まれる。そう信じて私は、つたない知識を絞ってこの一文を書いた。
 私たち大正生まれの受けた教育も正しかったとは思わない。明治時代に粉飾された神話が現実のことのように教えられ、天孫民族が土着の熊襲民族を武力で排除し本州を占領したことも誇りとされ、神の子孫、大和民族は敗れることはないと教えられた。戦士達が戦場で見せた異常な忠誠心はその結果である。私自身もその一人であった。戦後、教育は一変し、占領軍に遠慮して、近世、白人のアジア侵略の歴史は学校教育から消えてしまった。外国のことはともかく、日本の近代史だけは知らなくてはならない。私はその思いに駆られている。
 明治元年(1868)、戊辰戦争を経て王政復古が成就し、明治10年、西南戦争も平定し、急速に近代国家形成の道を進んだ日本は、明治27年(1894)、朝鮮半島にて清国と戦い、快勝。更に遼東半島に追い詰め、海軍は清国・北洋艦隊を撃破。明治28年(1895)、下関条約を締結し、建国以来初めての外国との戦争に勝利を収めた。その結果の賠償として、遼東半島及び台湾を割譲、賠償金2億両を受け取ることになった。
 然し、その直後、ロシア、フランス、ドイツによる三国干渉に威嚇され、遼東半島を辞退させられた。これら三国に加え、アメリカ、イギリスも清国を威嚇し、勝手に権益を要求した。特にロシアは遼東半島に港湾都市大連、軍港旅順を建設し、シベリア鉄道に通じる鉄道を敷き、旅順を東洋艦隊の基地として朝鮮に触手を延ばした。朝鮮を占領すれば、次の目標が日本であることは明白であった。当然、日本は軍事力強化を迫られ、陸海軍は多くの優秀な人材をヨーロッパに留学させ、造船、兵器生産、近代戦術等を習得した。
 三国干渉後、多数のキリスト教宣教師を中国に送り込んだイギリス、ドイツ、アメリカ、ロシアは、山東省で起きた宣教師殺害事件を口実に軍隊を送り込み、中国分割の野心を見せ始めた。それに対抗して起き上がった民衆蜂起が義和団であった。明治28年(1895)に始まった暴動は、明治34年終息(収束?)するまで続き、その間、清朝の西太后及び光緒帝は大原に逃避、宮殿・寺院当の貴重な財物が大量にヨーロッパに持ち去られた。この間、ロシア兵は専ら財物を破壊したという。
 この連合軍に日本も5万4千の兵力を参加させている。この間、ドイツは山東省膠州湾の租借を要求し、強引に占領、青島に新市街と海軍基地を建設した。これに呼応するようにロシアは旅順、大連を、英国は威海衛、九竜、フランスは広州湾をそれぞれ強引に占領してしまった。
 その後、欧米各国は自由に鉄道を敷設し、又清国政府は各国と借款を結んで鉄道を敷設。結果、産業流通の実権をすべて欧米各国に握られてしまった。
 その間、ロシアは満州に続々と兵を進め、鉄道を敷設し、軍事力を強化していた。ロシアの野心に恐怖を感じ、着々と対ロシア戦の準備を整えた日本は、見違えるほど強力な陸海軍を育成していた。
 明治37年(1904)、満州を主戦場として発生した日露戦争は、翌38年3月、奉天付近に於いて両軍主力の衝突となり、日本軍が大勝。更に5月27日、対馬沖においてロシア、バルチック艦隊を完膚なきまで撃滅する大勝利を収めた。
   然し、既に日本に余力がないことを見たアメリカは仲裁に入り、ポーツマス条約を結び、日本は危機を脱した。中国に利権拡大を狙っていたアメリカは、日本が戦勝に酔い、満州の利権を独占し、横暴に振舞うのを見て、恩を仇で返したと憤慨、黄禍論(日本排斥)が発生した。35年後の日米戦争の芽がこの頃から発生したものといえよう。
 日露戦争に敗れたロシアは、ロマノフ王朝の衰退を加速し、中国では、義和団暴動収束後、国民の意識が高まり、清朝政府崩壊につながった。ロシアはソビエトに、清国は中華民国になった。
 ロシア共産党の極東支配を憂慮したアメリカと日本は、第一次大戦の終結した大正7年、共産化阻止を目的にシベリアに出兵した。早々に引き揚げたアメリカに取り残された日本軍は、ゲリラと酷寒になすすべもなく、巨額の国費を浪費した挙句、大正10年(1921)、全く得る所なく、撤兵するに至った。
 大正3年(1914)、清朝は崩壊し、孫文等の努力が結実し、中華民国が誕生した。未だ地方軍閥の力も強く、完全な統一とはいえなかったが、清朝時代の官僚袁世凱を臨時総統として国民の意気は燃えていた。
 国家の再生は日本の明治維新に学べという気運が盛んになったのだが、大正4年、時の大隈重信内閣は愚かにも「二十一ヵ条の対華要求」を突きつけた。
 内容は中国の主権を無視し、「俺が面倒を見てやる」というような常軌を逸したもので、清朝時代の侮蔑観そのままの内容は、新中国を一朝にして反日に転じさせてしまった。この企ての裏には、中国に利権を求める三菱財閥の野心があったと言われる。当事者の外務大臣、加藤高明は三菱の総帥岩崎弥太郎の娘婿であった。大隈重信も政治には無知な男であったようだ。この恥ずべき二十一か条は、中国の反日教育の基本として、現在も歴史教科書で重要な位置を占めている。
 日露戦争の結果、ロシアの権益を引継いだ日本は、大連―ハルピン―満州を結ぶ鉄道を中心に大きな権益を取得し、その保護の名目で関東軍1万5百の兵力を駐屯させていた。一方、中華民国は満州に力が及ばず、軍閥張作霖が20万の強大な兵力を保持していた。奉天軍と称するこの軍隊は、戦車、飛行機までも備え、関東軍を威圧する存在になっていた。
 昭和4年、張作霖は奉天郊外に於いて列車ごと爆殺された。北京において、蒋介石と会談した帰路であった。関東軍の河本大作大佐の軽率な独断行動であったという説が有力であるが、真相は不明である。張作霖の後を継いだ長男張学良は反日を強め、急速に蒋介石に近づいて行った。昭和6年、満州事変を起した日本は、清朝の廃帝溥儀を擁立し、満州国を建国し、実権を握っていた。
 一方、峡西省延安に拠点を設けた毛沢東の中国共産党は次第に勢力を増し、国民党軍との衝突も激しくなっていた。張学良は蒋介石に働きかけ、国共休戦、統一反日戦線が動き出した。そして迎えた盧溝橋事件。これが支那事変、太平洋戦争へと突き進んでいった。
 日本国内は昭和初期の金融大恐慌の後も、農村の危機は続き、農民運動が盛り上がり、血盟団による暗殺が続き、5・15事件、2・26事件と若手軍人に改革を求める動きも激しくなっていた。2・26事件も農民に同情的な革命運動であったが、天皇は側近・重臣の言うがまま、ただ、逆賊として処刑したため、不穏な空気は払拭しきれなかった。
 盧溝橋事件は、故意か偶発か定かではないが、拡大回避を希望した天皇の意思を無視し、宣戦の天皇署名なきまま、“事変”という名称で拡大していった。大軍派遣の名目は居留民保護であったが、次第に“暴支膺懲”(ぼうしようちょう・“横暴な中国を懲らしめる”の意)と唱えるようになった。
 海軍も、陸軍の進撃も負けじと首都南京を爆撃した。この計画は近衛首相も全くツンボ桟敷に置かれたまま、実行された。「勝った、勝った」の報道に不穏な空気も吹っ飛び、軍需景気に国民は浮かれ出していた。
 昭和12年(1937)12月、首都南京を占領、日本軍史上初めて十数万の捕虜が発生した。その処置に困った結果が、大虐殺の始まりである。
 昭和13年10月には、中国政府の避難先漢口も占領し、蒋介石は首都を四川省重慶に移した。日本軍の急進撃は停まった。
 重慶に進攻することは不可能と判断した近衛首相は「今後、蒋介石政権を相手とせず」と、所謂近衛声明を発表した。ここにおいて、「打倒蒋介石」と言う戦争目的が消えてしまった。「一体我々は何のために戦っているのだ」と目標のない戦争を続けることになった。
 日本は梁鴻志を主席に据え、南京に維新政府を擁立し、次いで、重慶で蒋介石と袂を別った汪兆銘を主席とする南京国民政府を立ち上げたが、その政府を認めたのは、同盟国ドイツとイタリアのみであった。
 ヨーロッパでは既に第二次大戦が始まっていたが、アメリカを中心に欧米諸国の日本への抗議は激しく、A・B・C・D(アメリカ・イギリス・中国・オランダ)包囲陣の貿易妨害により、日本国内は物資配給制を次第に強化していった。
 昭和16年(1941)、ついにアメリカの最後通告を受けた。不戦の降伏か開戦か。当時、日本は石油の8割をアメリカに頼っていた。それでも対米英開戦に踏み切ったのである。
 昭和20年(1945)8月、東京は焼野原となり、原爆の惨禍を経ての敗戦であった。戦死・戦災死350万人を数えた。この愚かで、悲惨な歴史を繰り返してはならない。靖国の神に報いる途は永久平和しかない。
 今、外国に言われなくても、日本人は正しい歴史認識を持つことが必要である。私自身、戦場の生き残りである。自分の受けた教育を振り返り、今こそ、歴史の重要性を認識してこの一文を起した。

 

 

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