馬鹿げた命令
我が家のあたりは駅まで 7 分の住宅街でした。 総て木造。 コンクリートの家は有りません。 駅に近いほうは大きいお屋敷が多く、家の近くは敷地が 30 坪から 50
坪あるかないかの家並みでした。 (今と違って当時の敷地としては狭いほうなのです。)
各家の門前には、防火用水とブリキのアサガオバケツ、火叩き(棒の先にはたきのように、縄を付けたもので、ぬらして火を叩き消すとされた道具)、鳶口(とびぐち、破壊消防で、家を崩す??)が必ず置かれていました。 いかに物資がないとは言え、こんな江戸時代の火消し道具を、各家に常備せよと命じた人は、何を考えていたやら
・・・
焼夷弾はナイアガラ花火のようにざあざあ降ってきます。 一発の焼夷弾は、落とされると空で火がつき、ハガネのバンドがはずれて何十発にも分かれてはじけ飛びます。 そんな焼夷弾をまとめて落としてゆくのですから、火を消そうなんて思ったら逃げ遅れます。 でも、家々には役に立たない江戸火消しの道具が、並んでいたのです。
もっととんでもなく馬鹿げた命令は、「空襲警報が鳴ったら防空壕に入れ」という事でした。 一家に一つ防空壕を掘る事を命じられ、庭が無ければ畳を上げて床下に掘れといわれました。 お嬢様育ちの母には無理なので、12~3
歳の私が掘ったのです。
当時軍需工場で「元気が出る薬」だ、といって配られた、覚せい剤の「ヒロポン」を 2
錠もらって飲んだ勢いで、一日で掘りました。 庭が狭いから、半分は家に縁の下に完成したのです。 命令だから。
でも私は、自分が掘った防空壕に決して入りませんでした。 木造住宅ばかりの山の手には焼夷弾ばかりで、爆弾は落とされなかったからです。 爆風の起きる爆弾なら、穴にもぐっている方が安全ですが、焼夷弾は日本の住宅を研究し尽くして作られたそうで、瓦屋根を破って畳の上に留まって燃え上がるのです。 当時そこまでは知りませんでしたが、落ちれば火災になることは知っていました。
防空壕に入っていたら、落ちてくる焼夷弾は見えず、いきなり頭の上で家が燃え出したら、逃げ道がありません。 蒸し焼きになるのはなんとも恐ろしくて、町会の役員が「空襲警報発令 !! 防空壕に退避
! タイヒー !」とヒステリックに叫んで歩いても、こっそり庭で南の空を睨んでいました。
我が家から 800
メートルほど南に、同級生の家がありました。 商店街の酒屋さんで、男手が有ったのでしっかり屋根のある防空壕を作りました。 でも、防空壕の中で、彼女のお父さんは、不発の焼夷弾の直撃を受けて死にました。 もし不発弾でなかったら、一家全員防空壕の中で焼け死ぬところでした。 お父さんも店も無くした彼女の一家は、田舎に引き揚げて行き、やがて便りも途絶えました。
防空壕に入るのは危険すぎることなのに、「お上」はそれを命令し続けたのです。
◆中谷久子さんと同年代の少女達の戦争体験文集
※本サイト内の文章および画像の著作権は「96歳の遺言」電子絵本化プロジェクトに帰属します。これらを無断で販売・二次加工等の行為を禁じます。なお電子絵本のデータについては、ダウンロードしたファイルはご自由にデータコピー・プリント出力・配布して頂いて構 いませんが、有料での拡散・配布はご遠慮ください。
この 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 - 非営利 - 改変禁止 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。
あなたもジンドゥーで無料ホームページを。 無料新規登録は https://jp.jimdo.com から