お隣り組と配給
隣組制度はいつ始まったのでしょうか。 我が家のあたりは、一つのブロックが二組になっていて、7~8
軒ずつの集まりでした。 組長は輪番制で、配給や回覧板の世話をしました。
町内会は隣組の集まりで、役員は退役軍人などでした。 回覧板は戦意高揚の檄を飛ばし、後に紙切れと化す戦時国債を買うことを勧めたりしました。 かなり無理やり買わされたようです。
八軒分の仕切りをつけた木箱に、家ごとの人数を書いたものを組長が保管していて、「お魚の配給!
チリンチリン」という合図を聞くと皆組長宅前に集まります。 魚屋さんは人数分ずつ、小分けして入れ、みんな文句も言わずに買います。 何日に一回配給があったでしょうか ・・・、それはいつの間にか全く無くなりました。 たんぱく質から先ず不足して行ったように思います。
特に印象深いのは鰯の配給でした。 あれは戦時中だったのか、戦後だったのか? 戦後のような気もするのですが
・・・、鰯だけは一度にどっさり届いたので、仕切り箱は使わず、めいめい鍋に入れてもらいました。 たまに、決まって夜の 9 時半ごろ、「鰯の配給!」と、起こされるのです。 (当時は早寝でした) みんな喜んで飛び出します。
小型トラックから、一人に 5~6
匹づつ配給されました。 凄いご馳走です。 今よりはるかに漁獲量の多かった鰯。 大漁だと倉庫はないし、何しろ氷が足りませんから、すぐに売らなければ腐ってしまうのです。 そこで、漁港から真っ直ぐ消費地へ運んで、目黒にはいつも夜の 9 時半に着くのでした。
一人 6
匹は嬉しいけれど、冷蔵庫がないので、母と私は先ず一匹ずつ生でむさぼります。 夜だってお腹はすいていますから。 それから七輪に火をおこして焼きます。 明日のご馳走です。 翌朝はご飯がなくても鰯のご馳走というわけでした。
骨は焼きなおして食べました。頭は焼いて乾燥させて粉にして食べました。 鰯には感謝していて、いまだに大好きです。 漁獲量が減って、高級魚になってしまいましたが、昔は一番安くて豊富な魚だったのです。
◆中谷久子さんと同年代の少女達の戦争体験文集
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