繰り返した挫折
鏡売りで儲けたお金で、初期の編み物機を買って、習いに通いました。 昭和 24 年春でした。 ごく初期の編み機で、「矢」と言う 60
センチぐらいの竹の棒を、シャーッシャーッと差し込んで編む、メリヤス編みしか出来ない機械です。 模様編みは、いちいち針から外して、そこだけ編み直すと言う厄介な機械でした。
鏡売りで作ったお金は、機械代と初級クラスの授業料だけでした。 上級クラスに進級できないので仕事を回してもらえませんでした。 何年も経たないうちに、そんな初期の編み機はガラクタになってしまいました。 高速編み物機の進歩は目覚しかったのです。
編み物の夢破れたとき、洋裁店のお針子になりました。 三十代の先生(独身の女性)が一人で経営している小さなお店で、お針子は 18
歳の私たち二人でした。 当時のスタイルは 4 枚接ぎのフレアースカートで、ウエストの細いワンピースを沢山縫いました。 既製服の無い時代で、お客さんは生地を買ってきて洋裁店に仕立を頼むのが普通だったのです。
昭和 25
年、朝鮮戦争が勃発しました。 戦争は共産軍に朝鮮半島をひとなめにされたと思ったら、国連軍も反撃しソウルは何度も占領されたり奪回したりを繰り返しました。 一説では住民を含めて 400 万人の犠牲者が出たという大変な戦争でした。 米軍の苦戦が伝えられ、在日米軍からも、どんどん兵隊が送られてゆきました。
洋裁店の前の大通りを、戦車が轟々と通って行きます。 トラックに乗った兵隊さんもどっさり朝鮮に向かいました。 先生も私たちも「かわいそうに」と同情していました。 米兵に手を振ったことなど無いけれど、朝鮮戦争に行かされる兵隊さんには、三人で手を振りました。 彼らも喜んで手を振ってくれましたが、悲しそうに見えたものです。
「生きて帰りなさいよー」と私たちは祈る気持ちでした。 洋裁店の先生は、ご主人か恋人を戦争で失ったのかもしれないなと思ったものでした。
洋裁の知識は何もなかった私が、このお店で少しだけ覚えたおかげで、後に型紙を買って自分や子供の服を作ることが出来ました。 女同士のおしゃべりも楽しかったけれど、お針子の給料では暮らしが立ちませんでした。 結局、お金が足りない悲しさで、26
年春には辞めました。
◆中谷久子さんと同年代の少女達の戦争体験文集
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