プロローグ

 

東京目黒の高台に、大正末期、電鉄会社が開発した一区画 250 坪から 300 坪のゆったりした分譲地が有りました。 父は、日当たりの良い南の区画に大正 14 年に家を建てて、麻布から移ってきました。
ちょうど NHK (とは言いませんでしたが)のラジオ放送が開始された年で、初めから聞いていた父は、7 月に引っ越すとすぐ、新居でラジオを聞く『許可書』を取りました。 今も残るその紙切れの裏には、受信機のそばに必ず許可書を置いておくようにと書いてあります。 高いアンテナが必要で受信機は鉱石ラジオでした。
翌年、昭和に変わると、どんどん景気は悪化して、昭和の大恐慌、農村は疲弊して、娘達が女郎や工女に売られる時代となりました。 株は大暴落を繰り返し、その世界にいた父には最悪の時代でしたが、家族は何も知らず豊かに暮らしていました。
昭和 6 年、国内の不満を解消するためか満州事変が勃発。 「昭和の 14 年戦争」が始まってしまったのです。
その年、我が家ではびっくりする事件が ・・・、兄が生まれてから 11 年も経つのに、ひょっこり私が生まれたのです。 心労続きであったろう 55 歳の父は、大喜びで私を溺愛してくれました。
近所に友達もなく、バラや花木の多い敷地内でばかり遊んでいた私。 幼稚園も有りませんでしたが、6 歳までにカタカナ、ひらがな、の読み書きは出来ました。 漢字も「屋上庭園」と書けたのは、デパートの屋上の小さな遊園地が好きだったからです。
私は昭和 13 年に小学校に入学しました。 入学前の『メンタルテスト』は酷い体験でした。 いいえ、私が箱入り娘過ぎて、よその人と話した経験が無い為、答えがわかっていても一切返事をしなかったからなのですが、『低脳(知恵おくれ)ですな!』とさも迷惑そうに中年の男の先生は言いました。 吐き捨てるような嫌な言い方を、何故か記憶しています。
その年の 10 月末、父は、朝起きてきませんでした。 突然死、ふとんの中で冷たくなっていたのです。 それからの混乱の日々は、私の記憶から完全に消えています。 父の急死と、それに伴う経済の逼迫で事態は急変。 同じ目黒の、小さい家に移り、どんどん酷くなる戦争に翻弄されることになりました。
2 年生の夏転校した小学校に、私は 5 年生までなじめずにいました。 6 年の担任の先生と相性が良くて、やっと元気になれたのですが。 小学校では毎朝、朝礼があって、雨でない限り校庭に整列したものです。 昔の子供はきちっと整列できるように、厳しくしつけられていました。
号令台から命令が次々浴びせられます。 『気をつけ! 前へならえ!』みんな腕を前に伸ばして、前の人との間隔を決めます。 タテにもヨコにもきちっと並びます。 そう、今、北朝鮮の子供たちが並んでいるように、一瞬にして真っ直ぐに整列できたのです。 ちょっとでも列を乱したら、先生に怒鳴られます。
いろんな号令がかかりました。 『皇居遙拝(天皇のいらっしゃる宮城の方角に最敬礼すること)』、『気をつけ! 天皇陛下に対し奉り、最敬礼! ・・・ なおれっ!』 最敬礼は背筋を伸ばしたまま腰を曲げて 90 度以上に頭を下げます 。『敬礼』は 60 度です。 おじぎする時、背中を丸めてはいけません。
当時、どの学校にも必ずあったのが『御真影奉安殿(ごしんえいほうあんでん)』と二宮金次郎の銅像です。 ご真影とは、現人神(あらひとがみ)であらせられる、天皇皇后両陛下の写真。 奉安殿は神社の形をしていました。 御真影奉安殿の前を通るときは、立ち止まって、向きを変え、最敬礼してから通ります。
子供たちは、『今、支那(中国)で戦争をしているのは、大東亜共栄圏を打ち立てるためである。 支那の愚かな政府を倒して、人民を大東亜共栄圏の一員にする為だ』と教育されていました。 みんな中国人のことを、チャンコロとか、チャン公とか呼んで、馬鹿にしきっていました。 日本人だけが東洋の盟主で偉いんだと思い込まされました。 朝鮮人への差別も酷い時代でした。
そのうちにドイツ、イタリアと三国防共協定(軍事同盟を結んで、共産主義国に対峙すること)が結ばれ、共産国以上に、アメリカ、イギリス、オランダなどと対立してゆきました。
当時の私たちにとって、ドイツのヒットラーはかっこいい英雄でした。 ヒットラーユーゲントとか言うドイツの少年団がやってきたときは大歓迎でした。 統制の取れた少年達の俊敏な動きは素晴らしいと皆感心したものです。 今の北朝鮮の子供たちみたいだったのですけれどね。
それは、皇紀 2600 年を祝った昭和 15 年ごろの事でした。 神武天皇から数えると、日本国の歴史は 2600 年だというのでした。 万世一系ゆるぎなき皇統 ・・・ 歴史上、天皇の位を争う戦いがいくつもあったなんてことは教えません。 とにかく天皇は神様だと教え込まれていました。
昭和天皇にはご迷惑なことでした。 本当の天皇は一貫して戦争反対だったのに、神として先頭に祭り上げられて、苦悩しておられたのですから。 そうして昭和 16 年、日本は、アメリカ、イギリス、オランダなどとも、無謀な戦争を始めてしまいました。 中国だけでも手一杯だったのに。
☆ ☆ ☆
この話は、戦争を知らない世代の方々に向けて語っているので、先に少し説明がいると思います。
昭和初期のアジアの地図は、大半が植民地の色に塗られていました。 フランス領インドシナ = ベトナム、ラオス、カンボジア。 オランダ領インドシナ = インドネシア、ブルネイなど。 イギリス領 = インド、パキスタン、バングラディッシュ、スリランカ、ビルマ、マレー、ボルネオ北部、オーストラリア、ニュージーランド。 アメリカ = フィリピンなどの島々。
中国東北部には、ロシアが勢力を伸ばし、中国沿岸部などでは欧米列強が利権を競い合っていました。
その傍にある小さな島国日本は、どうやって欧米の餌食にならず、独立を守りうるか ・・・厳しい時代でした。 欧米も、日本には迂闊に手出しできませんでした。 徳川時代から「識字率世界一」読み書きそろばんの出来る人口が非常に多いことは、欧米人には驚異でした。 日清、日露の戦争に勝ったのを見て、侮れないと恐れました。
日本人もまた、日清戦争に勝ったことで、勘違いをしてしまいました。 戦費を当時の金で 2 億円かけて(2 年分の経常収入に当たる)清国から取った賠償金が 3 億 6 千万円と聞きました。 それによって北九州に八幡製鉄所を建設することが出来たそうです。 戦争に勝てば儲かると庶民は思いこんでしまいました。
日清戦争は中国全土と戦ったわけではありません。 朝鮮と海上と沿岸で戦っただけで、清朝末期の中国が負けたのは、まとまりがなかったからでしょう。
10 年後の日露戦争は、革命前の末期の王朝が相手でしたが、それでもロシアの本土にはまだ余力が有り、日本にはもう戦う力はなかった状態での講和ですから、賠償金は全く取れず、樺太の半分と、南満州の鉄道の一部を獲得し、朝鮮へのロシアの影響を食い止めたに過ぎなかったため、庶民は小村外相に怒りをぶつけました。 戦争に勝てば儲かって領土が増えると思い込んでいましたから。
欧米に負けまいとするあまり、欧米を真似て、日本も植民地を持とうと考え、満州国を作りましたが、初めの理想とはかけ離れて、日本の関東軍が満州国を呑み込んでしまった為に、多くの悲劇を生みました。
大東亜共栄圏の理想は間違っていませんでした。 「アジアの人民が力をあわせて、欧米列強を追い払い、独立を勝ち取ろう」という事で、実際、日本が無謀な戦争に負けたすぐ後で、東南アジア諸国は次々と独立を果たしました。 インドネシアの独立戦争のときには、残留日本兵がかなり参加していました。 独立できたのは日本のおかげだと思っている人は多かったのです。
太平洋戦争を起こしたのは、日本だけのせいではありません。 欧米列強は、日本を早く潰しておかないと、自分たちを脅かすだろうと、団結して包囲網を敷き、日本に金属も、石油も、ゴムも、入らないように締め付けました。 資源のない日本は、ゴムなどの資源を求めて、まずベトナムからフランスを追い払いました。
ますますアメリカ、イギリス、オランダ、中国の締め付けは厳しくなり、我慢できなくなって日本は真珠湾攻撃をし、3 年半の辛い戦いの末、大空襲や原爆でぶちのめされてしまったのです。 今、アメリカが、アフガンや、イラクで、始めてしまった戦争を、終わらせることが出来なくて苦悩していますが、日本も、終わらせることが難しすぎて、大被害をこうむったわけです。
最近、国防の為に、もっと軍事力を持たねば ・・・ などといわれますが、時代は変わっているのです。 有るとすればテロ戦争。 核の傘など役に立たず、ミサイル迎撃ミサイルだって役には立たないでしょう。 日本の無防備な長い長い海岸線を、軍隊がどうやって護れますか? 今すでに、スパイの出入り自由な国になっているそうです。
国を護るには敵を作らないことしか有りません。 テロと戦うには、世界中の貧困や飢えを無くす以外にないでしょう。 先ず大事なのはコミュニケーション能力だと思います。 家庭内暴力だって、コミュニケーション能力の貧困によるものでしょう。 外交オンチの国は滅びます。
まあこんな事を考えながら、子供の見た戦争の話に戻ります。

 

 

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